2017年1月30日月曜日

沈黙の声 #1


テーブルの上に加賀棒茶とチョコレートブラウニー。
窓の向こうに猫と紫陽花。

2016年6月。ルバイヤートの初公演を終えたばかりだった。書物「The voice of the silent」、ブラバトスキーによる英訳、チベット密教の秘書「沈黙の声」を手に時の花で潤った庭を眺めながら、声なき声を聞く。本の重みを感じながら、翻訳するだけでは成り立たないこの詩をどう舞台化するかを考えていた。並行に脳の片隅でチラつく、現代を生きる者のある物語が駆け巡る。ぼんやりするなか、遠くでピアノが鳴るった。

ゆっくりと霞が晴れるかのように始めはうっすらと徐々にはっきりと声が聞こえてきた。

「…インテリっていうのはな、ウィズドムじゃねえんだよ。インテリって測れるだろ?量として。ウィズドムっちゅーもんはよ、それを遥かに超えているんだ。それにウィズドムは測れないんだよ、測れるものではないんだよ。いいか、測れるものってのはよ、たかが知れてるんだよ。まあいいっ、この本をお前に渡す。ただしっっ!思うままにやれ、自分を飾らずそのままでいろ」

理由は分からないが江戸っ子、蕎麦屋の熱燗を思わさせる説法だった。でもあるのはチョコレートブラウニー、その辺がブラバトスキーとの会話らしくある。

答えになるようでならないが、ともかく延々と行われる頭の中の会話に勇気づけられたのか

「じゃあやります!!よろしくお願いしますっ!!」

と意気込んだのは初夏だった。

その間、コレクティブは2作品の公演を終え、季節は夏、秋、冬と3度移り変わった。そのスピードはマックス・リヒター編曲のヴィヴァルディ、四季のようだった。何を書くかは分かっていたが如何に書くかが分からず、歳月不待人、と書かれた軸がぶら下がるなか空気のみ先に進む。本は12月に入っても真っ白だった。数週間後にこの作品のために企画したワークショップを控えている。だが不思議と焦ってはいなかった。一文とは尻尾のよう。それを掴むと本体を捕まえたのと同然。けれども、一匹だけでなく何匹も連なっている場合もあり、その上魔物は変貌もする。知らないうちに家に上がり込んでいる時もある。ピンポンくらい鳴らして欲しかったけど、どちら様ですか?お茶出して置きますね、でも一体いつまでいるのかしら、まさか夕飯も!?今回、自ら掴みに行ったのか、勝手に来たのかは霞んでしまい忘れたが、ワークショップを目前に言葉は綴られた。

WS当日、選り抜いたメンバーが集まった。その日の私は、どうゆう訳か普段の自分がスコンと抜け落ちていて、別の誰か、しかもとても抽象的な人格がやってきて、何かを指でさしながら、触る、嗅ぐ、見る、とか、ここじゃないけどそこ、とか、この香りじゃなくてこっちの香り、とかそうゆう類の説明しか出来なかった。でもそれで良かったのだ。具体的な説明は却って障害になる場合がある。皆さんも素晴らしかった。

綿あめ。綿あめのような公演にしたいと願っている。甘い、という意味ではない。棒が綿あめ機の周りをクルクルと回り続けると、次第に雲のような綿が形成されてゆく。曖昧な形をした綿毛が、連なった一本一本の糸が、ある一つのものを完成させる。言葉、出演者、空間、その日の天気、その場を共有する皆さん、そこに至るまでの一人一人のあれこれ。そこに在るもの全てが作品のうち。

「沈黙の声」の「声」はインスピレーション「直感」であり、木洩れ陽のような、自分の中と外を繋いでいるもの。聞くか聞かないか、または、どれを聞いて聞かないか。ブラバトスキーを通して黄金の書は言った。それを人のためにつかえ、と。


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2017年1月23日月曜日

Patti Smith Interview: Advice to the young



物書きやアーティストは作品が受けるかどうか期待することは出来ない。私は以前、誰も聴いてくれなさそうなレコードを数多く作った。50人くらいしか読まないと思いながらも詩集を出した。でも仕事を続ける。だってそれが使命だから。でも、人々に囲まれることは素晴らしいことよ。誰かが言ってたけど、「いわゆる成功ってアーティストを駄目にすると思わない?貴方はパンクロッカーだからヒット・チャートに登りたくないよね?」って。私の答えは、くたばっちまえ!って感じ。だって、誰かのためにやっている仕事が、より多く人々に触れられたら、より素晴らしいじゃない。「クールな人さえ読んでくれればいいわ」と思いながら書かないわよ。皆んなの手元に届いて、そして願わくば、感動を与えたいでしょう。

うんと若いころ、お金もなくて、すごい苦労してた時、ウィリアム・バロウが私に言ったわ。ウィリアムは、彼がくれたアドバイスは、「良い名前を築け。その名前を清潔に保て。妥協はするな、儲けや成功のことは考えるな。良い作品をつくり、いい選択をすること。作品を守れ。もし良い名前を築けたら、そのうち、それが通貨になるだろう」こう答えたのを覚えているわ。「でも、ウィリアム、私の名前はスミスよ!?まさか、それで?」(笑)冗談よ。(笑*スミスはアメリカやイギリスで最も一般的な苗字の一つ)でも、アーティストでいること、それ以前に人間でいることは難しい。みんな健康で、出来るだけ幸せで、やりたいことをやりながら人生を進んで行きたいもの。やりたいことが子供を持つことかもしれないし、パン屋になることかもしれない。森に住んで環境を守ることかもしらない、または刑事ドラマの脚本を書くことかもしれない。なんでもいいのよ。何が大事かと言うと、やりたいことが分かっていること。そしてその覚悟が出来ていること。だって人生はすごく大変だから。愛するものは死ぬし、失恋はするし、病気になったり、すごく酷い虫歯になったりするし、空腹にも苦しむし。でもその反面、最高に美しい体験もする。それは時に、そうね、ただの空だったり。時にはいい作品が作れた時、愛する人を見つけた時やあなたの子供。世界には美しいことがあるの。だから苦しい時、思い出して。「そうだ、これはパッケージのうちの一つ」だ、と。よく考えてみれば、私達は生まれたんだから死ななきゃいけないの。それは誰でも分かってること。だから最高に幸せの時もあれば最悪なこともある。ただ乗り切ること。ジェットコースターみたいにね。完璧なものはないの。スムーズで最高だと思える瞬間もあれば荒々しかったり。でも、全てに価値はあるの。信じて。私はそう信じてるわ。

えっと。どんな世代にも、私たちの頃は最高だった、とか最悪だったとか言えると思う。けれども今、今現在の、この時代は私が今まで見てきたなかで何かが違う。とてもユニークよ。何故ユニークか、と言うと、この現代のテクノロジーの進化によって自己表現が民主化された。以前ならば一握りの人間しかレコードは作れなかったし、曲を書くことだって許されていなかった。けれども、今は誰でも書ける。書いた詩をネットに載せて皆んなに読んで貰うことが出来る。誰でもアクセスを持っているのよ、かつて今までなかったアクセスを。このテクノロジーを通して人々は一つになり、世界を変動させたり、世界を支配していると思ってる大企業や政府に立ち向かえる。私たちはそれがどうゆうことなのか、実際どんな力を私達が持っているのか模索している最中だと思う。でも今まで以上に人々に力があるのは確か。今は苦しい時、まるで思春期のよう;このテクノロジーをどうするか、この世界をどうするか、我々は何者なのか?

でも、ワクワクする、でしょう?今の若者が、新しい世代が新しい時の開拓者。だからこう言わせて。強く、出来るだけ楽しく、清く健康に。だって、これから挑戦することが沢山待っているから。そしてハッピーでいることよ。

2017年1月21日土曜日

Mitsuko Uchida san on Talent



才能だけで十分か。私の答えはノーです。でも才能の意味合いで変わりますから私の言葉で才能とは何かを話したいと思います。

まず第一に、音楽のみを通し深い感情を表現したい気持ちが、心の奥底から強く根付いていること。もし詩を書きたいなら、絵を描きたいなら、貴方は音楽家ではありません。生れながら音楽が最も大切で表現したい欲望があること、それがまず第一のポイントです。第二。知力です。ある程度知識や理解力がないとバッハから他の多くの音楽を理解することは出来ません。ですから、あると便利です。便利以上に必要不可欠なものと言っても良いと思います。三つ目に、皆さんもご存知の通り技術です。技術が高く評価されていますが、それは今も昔も変わりません。次に四つ目。カリスマです。昔でしたら才能のうちとは考えられなかったのですが、カリスマも才能のうちです。これら三つ述べておいて言いますが、実は、一番目の項目以外は、音楽を本当に理解し、信念があれば全て付いてきます。才能が生まれつきのものだと思わない訳はそこにあります。その他に必要なものは個性。音楽家であろうと画家であろうと政治家であろうと、個性は必要です。個性は人格の中心であり、これなしには個人は成長することが出来ません。この点で個性は最も重要と言えます。そして、最も難点なこと。運がいいこと。こればっかりは自分の判断外です。とにかく、これらが私なりに思う才能です。

しかし、世間が議論していることと言ったら社会の変化だったり、20世紀発達したテクノロジー、その影響であったり、レコード会社が昔と違うやら、経済問題、銀行が全てを破壊したやら。ノー!私には関係ない。それ以上言うことはありません。ですが世間は議論を続け、ipodを聴いて、CD買う代わりにダウンロードして、コンサートに行きたければ行く、で良いのです。ただひとつ。人々が良質のクラシック音楽を求めなくなったのは、現代の生活習慣から生じた問題です。子供はまず家庭で音楽を聴き、そして学校で美しい音楽に触れる。もしこの二つが存在しなかったら、クラシックだけでなくどうやって音楽を聴くのでしょう。クラシック音楽には、才能のうちとして良い耳が必要です。

最後に。財団唯一の現役の音楽家として申し上げたいのは、生活が出来ていることです。私をも含め、大多数が、子供をイートン校に送れるような裕福な家庭から来ておりません。ですから稼がなければなりません。そうは言いましたが音楽家は職業ではありません。天職です。これは忘れてはなりません。もし聴きに来た方が支払いたくないと言っても私は弾きます。音楽家であることは名誉なことなのです。しかし、この溢れる数の中どうやって生きて行くか。我々財団の仕事は特に最も才能あるものが生き残れるよう手助けすることです。


音楽家であることは名誉そのもの。私はそれ以外やりたいことはない。以上です。ありがあとうございました!